不定期古墳巡り記事を楽しむための予備知識 ちょっと番外編
ども!
ちょっと寄り道して番外編です。
二度あるかないかないかの貴重な番外編ですよ。
今日も今日とて、つらつらと好きなように書きます。
では、今回のテーマは
古墳は如何にしてできたか
です。
よくよく考えたら古墳ってなんですかね。
お墓にしてはデカいよな...ってみんな1度は考えますよね(ね?
かく言う筆者も、昔は古墳の写真や実物をみると「こんなのどうやって作ったんだろ」とか「誰が考え出したんだろうか」と考えてたんですよ。
そもそも、こういった墳丘墓を作ろうって考えが思いつくのってホントすごいと思います。
墳丘墓自体、世界中至る所にありますが、これほどまでに多様な形態をもつものは日本だけではないでしょうか。
話を戻しますが、そもそもなぜ古墳は出来たのでしょうか。
それでは、縄文時代から紐解いてみましょう!
縄文時代の墓制
時は遡り縄文時代、人々は家族が亡くなると穴を掘ってそこにいくつかの副葬品を供えて埋葬しました。
こういった墓を土坑墓といいます。
この土坑墓自体、旧石器時代から見られる墓制で、人間では最も古い埋葬の方法なのですよ。
因みに、この頃は屈葬(くっそう)が主流でした。屈葬とは、亡くなって魂の抜けた死者の体を悪霊が悪用しないよう手足を折り曲げて葬ること。
このような「モノに魂が宿る」とする考えを"アニミズム(精霊信仰)"と言います。
因みにこれは一説で
- 魂の再生を願う
- 穴掘るのが楽
といった説があります。
_人人 人人人_
> 掘るのが楽 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y ̄
コホン
そして、縄文時代では故人を埋めた穴を囲むように石を丸く配列することがあります。環状列石といって、秋田県に大湯環状列石という遺跡があります。
興味のある方は行ってみるといいかも?
弥生時代に見られる墳丘墓
時期が経つにつれて、文化は変わり時代は弥生時代へと移ります。
この頃になると、ムラが出来、ハッキリした社会階層が現れ始め、村の長が出現し始まる訳です。
弥生時代の時期によって墓制に大きな変化があります。階級によっても変わってきます。
縄文時代の頃は屈葬が主流でしたが、弥生時代になると伸展葬(手足を伸ばして葬ること)が用いられてきます。
弥生時代の墓制についてですが、古墳についての記事なので詳しくは書きませんので予めご了承ください。
参考までに弥生時代の墓制を以下に記します。
- 甕棺墓
- 支石墓
- 箱式石棺・箱式木棺墓
- 四隅突出墓
- 墳丘墓
むむ?
弥生時代には既に墳丘墓があったんですね。
と言っても、弥生時代の墳丘墓というのは前方後円墳や八角墳のように多様な形を取ることはありません。
弥生時代前期中頃から後期にかけて作られ、その分布は近畿地方から東北地方に広がります。
このように、弥生時代に作られた墳丘墓を"方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)"といいます。
円形の周溝墓も確認されております。円墳の祖先...( ˘ω˘ )
この方形周溝墓は、棺の埋葬地の周りを一辺約6m~20mの方形の溝で囲み、土盛りをしたものです。
後の古墳のように個人埋葬用ではなく、複数人が埋葬されている例が多いため、家族用の墓と思われます。
しかし、発掘された副葬品は豪華な物が多く、上流階級の家族の墓とも言われています
さてこの方形周溝墓ですが、どのような経緯で作られたのでしょうか。穴を掘り、そこに土葬していた今までの曰本からは考えられません。
弥生時代にもなると、石から作りだした石版を組みあわせた箱式石棺墓、木から作りだした板で作った箱式木棺墓が出来てきますがどうやってもそこに土を盛るなんて考えませんよね。
ここで、今まで習ってきたであろう日本史を思い出してみてください。
日本では最初から稲作をしていたでしょうか
鉄を持っていたでしょうか。
銅鐸、銅鏡、銅矛...
一体誰が作りだしたのか...?
もうお分かりのはずです。
そう
渡来人
です。
日本にやってきた彼らは、日本に稲作を伝え、鉄を教えました。これには日本人もニッコリ。
これと同時に方形周溝墓も伝来してきたと思われます。
朝鮮半島では弥生時代より前の時代から大量に方形周溝墓が作られていました。
九州にやってきた方形周溝墓の達人たちは、近畿地方へと赴き、方形周溝墓を伝えました。
そのためか九州地方には方形周溝墓が極めて少ないのです。
さて、日本における墳丘墓の起源は渡来人によるものとわかりました。
では、どうしてこの小型の墳丘墓が大きくなるのでしょうか。
弥生時代後期になると、近畿地方や瀬戸内海沿岸では墳丘墓が大型化し始まります。
純粋に、自分の権力を大きく見せるためでしょうか
男の子はおっきいのが好きだもの。
岡山県倉敷市では楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)と呼ばれる、円形の丘に方形の張り出しをもっている、所謂「双方中円墳」の形態が見られます。
兵庫県では四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が出現します。方墳の四隅を張り出させたような形を思い浮かべてください。
方形周溝墓からこのように発達を遂げてきた墳丘墓ですがここまでの発達は日本独自のものとなります。
脱帽。
前方後円墳の出現
さて、ここまで墳丘墓の生い立ちと生涯を語りました。ここからは如何にして前方後円墳が出来たかを推察していきます。
(調べればwikiに書いてありますが)
皆さん1度は聞いたことがあるであろう「箸墓古墳」ですが、日本最古級の前方後円墳と言われていますね。
この箸墓古墳一帯にはたくさんの古墳があります。
この一帯を纒向遺跡といいます。
纒向遺跡にある古墳から見て取れるのは墳丘墓の形状変化です。
纒向型前方後円墳と呼ばれる帆立貝形古墳によく似た墳丘墓が出現します。
一説には邪馬台国とも...?
纒向遺跡の古墳群は前方後円墳の祖先といっても過言では無いわけです。
...何故、前方後円形の墳形が出来たのでしょうか。
方形周溝墓と円形周溝墓が合わさることにより出来たのでしょうか。
一般的には円形墳丘墓の周りの溝に作った陸橋が円墳と共に巨大化したとする説が挙げられます。
楯築墳丘墓の小さい張り出しが亡くなり、前方後円墳と化したのか。
ヤマト政権が作ったという説もあるみたいですね。
因みに、日本に方形周溝墓をもたらした古墳の祖とも言える朝鮮半島にも前方後円墳が確認されています。
光州月桂洞古墳群
155 Wolgye-ro, Cheomdan 2(i)-dong, Gwangsan-gu, Gwangju, 韓国
+82 62-971-6595
https://goo.gl/maps/GtAQ4HC2bjSdjrUK9
前方後円墳は日本固有の墳形とされています。
そう、逆輸入です。朝鮮半島にいた倭人が朝鮮半島に作らせた...
といっても、日本の前方後円墳とは少し形が違います。チャンコブンというらしいです。
まとめ
日本における古代の墓制と伝来についてと、前方後円墳の成り立ちを書いてきました。
ここまでを簡単に纏めると、
まとめになったのかこれ...?
最後に
方形周溝墓から始まった日本の墳丘墓史は続き、進化を続け、古墳時代の到来。
力をつけたムラはクニとなり、長は豪族となる。
彼らの墓に墳丘墓が選ばれ、前方後円墳、円墳、方墳といった多種多様な墳形が作られる。
薄葬令が出されるまで、前方後円墳は古墳の王者として君臨し続けた。
現代においても古墳ファンを魅了し続ける前方後円墳。
これからも、未発見の古墳が発見されることと思います。
そこからどのような発見がされるのでしょうか。
楽しみですねぇ...
長くなりましたが今回はここまで。
お疲れ様でした!
では!
fin